2007 |
05,31 |
『戌年でござりまする』
「あ? 今なんつった……?」
千秋は肩眉を跳ね上げた。
「だからー」
「…………」
姉・菜摘は満面の笑みで答えた。
「犬飼うの」
「…………」
要約をすると、退院祝いに犬を飼うことに決まったらしい。というか、前々から菜摘が飼いたいとせがんでいたのだが……とうとう親が折れたらしい。まぁ……そういうことだ。だから、退院祝いというのは単なる名目である。別に飼う飼わないどちらにしても千秋自身には異論はなかった。眉を跳ね上げたのは、あまりに突然だったからだ。
そして、うふふと浮かれて笑う彼女の中では、既に決定事項(?)とみなされて飼うべき犬は二頭に絞られているようだった。
「で、どっちがいい?」
目の前に二枚の写真が差し出されて、
「…………」
飼うことに、……異論は、ないけどよ……。
「…………」
少しの間の(かなりの)沈黙の後、千秋ははーっと息を吐き出した。
どうしてこの二頭に決まったのか……?
指し示された選択肢は――、
(これしかないのかよ!?)
生後間もないだろう二頭の子犬の写真。
普通ならどちらも甲乙つけがたくかわいいと思うのだろう。けど、千秋はげんなりと肩を落とした。
しかし、どちらがマシかなんて……選択肢がないならないなりに即答できるほど千秋の中では決まっていた。
「というわけでこっちに決まったの」
やっぱり犬って言ったら柴犬なのかなー? と嬉しそうに語る菜摘に対して綾子は引きつった笑みを浮かべていた。菜摘が千秋に指し示した選択肢は、真っ黒い理知的なドーベルマンと毛の短いが丸まった尻尾が愛らしい豆柴(柴犬)。
はは、そりゃーその選択肢じゃ、長秀じゃなくても柴犬を選ぶわよ、と思いつつも綾子が気になるのは――、
「こら、バカ虎! 待てっつってんだろ!?」
ちらりとその声のほうに綾子が視線をやれば、怒っているのにさも嬉しそうに犬を叱る千秋の姿があった。
「修平ったら絶対黒い犬は嫌だって」
「…………」
「なんでだろ?」
その問いも答えは決まっているだろう。どう考えてもアレしか原因はないだろう。黒い犬といったらというか、ドーベルマンなんてこの間自殺を謀りかけたアレを連想させて仕方ないではないか。あんな面倒なものを飼いたいなんて奇特なことを考えるのは、この世界中に知っている限り一人しか綾子は知らない。
(…………)
「おまえはアホか!」
言われている犬はまだまだ小さく乳からやっと離れたぐらいで、千秋の手の内にある餌を見上げだらだらと涎を垂らしている。
「修平ったらね、あの子に芸を教える気満々っぽいのよねー」
「…………」
そうなんだ、とますます微妙な笑みを受けべる綾子は、千秋の魂胆がよーく理解できた。
「よし! 喰ってよし! バカ虎!」
そういう千秋は本当に嬉しそうだ。
傍からみれば、その光景は子犬をさも可愛がっているように見える。まさにそう見えるが……、
「たーんと食べろよー、この後は特訓だからなー!」
「…………」
あれはどうみても――、
(…………はは……)
バカ虎、バカ虎と言って――、
(――ストレス発散、よね……)
どれについての発散かは、この際問わないことにしておこう。
「ねぇ、菜っちゃん」
「何?」
「あの犬の名前は? バカ虎じゃないわよねぇ?」
千秋とよく似た顔立ちではあるが、やはり女の子である分おっとりとした顔立ちの菜摘は瞬きをしただけで人形のように可愛らしい。さすが小学校で綾子とツインプリンセスと評されるだけある美貌の持ち主だ。そして、
「うん! マメ虎っていうの」
牡丹の華が綻ぶかのような笑顔に綾子は豪快に肺に息を吸い込んだ。
うん、そうでしょう。そうとも! でもね。柴犬って品種はあんまり頭よくないのよ? だからね、早いうちにアレの所業をやめさせないと――、
「こら! バカ虎ッ! 吐くんじゃねー!!」
あの名前に落ち着いちゃうわよ?
それでもいいの? 菜っちゃん? とはその場で言い出せなかった……綾子である。
――end.